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なぜオレがビートルズの続きをやることになっていると感じているのか?その理由

1970年 11歳 ビートルズが自ら終止符を打ったと同時にビートルズの洗礼を受ける。
ビートルズが解散してしまったその年、3っつ年上の兄貴が友達からLPヘイ・ジュードを借りてきた。
まともな音楽教育を受けていない一庶民にすぎなかった奴らが自由に赴くままの感性のみで世界をかえるほどの音楽を生み出していたことを知り衝撃を受ける。
既成概念をうち破り続け常に先駆者であり続けたビートルズ。
そんなすごいことが一人間に出来るのだ!俺も同じ人間だ!俺にも出来るはずだ!絶対に出来る!世界を引っ張っていくミュージシャンになる! ※受け継ぐのはココ・
物心付かない3,4歳のころ世界的にヒットした唯一の日本の歌「上を向いて歩こう」を上手に歌う幼児として近所で評判だったという俺。6歳頃から適当に歌を作ることが得意だった俺。
そうだ!俺はやっぱり世界をかえるミュージシャンになるのだ!!と、決意する。

1972年 13歳 ギターを始める。ビートルズに倣って(自分なりの解釈)教則本などの勉強をさけ、自己流で最初からオリジナルソングを作ることからスタートする。
楽器を奏でる、音楽で表現する、それは、自分の中からでてくる自分作のモノでなければやる意味がない。自分が自分であるための表現なのだから。自分しかできないことをやって世界に影響をあたえる。その人間の個性が世界に貢献する。 ※受け継ぐのはココ・(ビートルズは他がやっていないこと、 自分たちが自分たちであるアイデンティティー性に一番こだわっていた。)

〜〜〜〜〜 その後、歌を作り続け、デモテープを作ったり、ライブ活動したり、世に問うべく努力と試行錯誤をし続けるもいっこうに扉が開かず、世に出ぬまま生まれ続ける歌が蓄積し醸成され妙にクオリティーが上っていくだけのむなしい年月が流れる。

1980年 21歳 ジョンが殺された。ビートルズとの出会い以来、それぞれのソロアルバムをタイムリーに買いながら、それぞれの作品の多少のくいたりなさを感じ、いつかもう一度4人で一緒にやってくれ!という願いが完全に絶たれた。ビートルズの新曲の夢は叶わず、夢のまま終わってしまったのだ。音楽で世界をもっと良く変えていく可能性が・・・いよいよ自分がやらなければと燃える。

〜〜〜〜〜 バンドを結成し、より一層、精力的に音楽活動を押し進めるが世の扉はあいかわらず開かない。その時期がまだだと言うことなのか、そして世に出ぬまま生まれ続ける歌が蓄積し醸成され妙にクオリティーが上っていくだけのむなしい年月がさらに流れる。

1993年 34歳 放送作家として、請われて、「ごっつええ感じ」に参加すべく、上京。初めて、フジテレビへ。正面玄関ロビーで担当ディレクターを待つことに。 少し早めに着いた俺は、ソファーに腰掛けて、向かいに置かれていたテレビモニターに映し出されていた相撲中継をボーっと眺めていた。
そんな俺のとなりに誰かが座る気配が。そこには、俺が一方的に知っている顔が!リンダ・マッカートニーだ!!リンダは俺の顔を笑顔でみて、「私お相撲が好きなの」と英語で話しかけてきたのだ。あまりの突然にビックリしながらもつたない英語で「誰か好きな力士がいるんですか?」と聞くと「ウルフ」と答えた。なぜ彼女はここにいるのか?なぜ、20年来影響を受け考え続けてきた人物の奥さんが突然となりに現れてしかもふたりっきりでいるのか?!
この降って沸いた状況はいったいなんなんだ?!とにかく俺は、自分が音楽をやっていることを伝え、何かの時のためにといつも鞄に忍ばせて置いたデモ  テープを渡し、「聴いてほしい」というと、「sure!」と受け取ってくれた。とそのとき階段から報道陣の固まりが・・・!ポールだ!そうだ、明日東京でコンサートがあったのだ!彼はその取材を受けにフジテレビに来ていたのだ。そして、その取材が終わるのをリンダはここで待ってたのだ。リンダは、俺に「じゃあ」と言い、俺のデモテープを片手に、ポールと腕を組みタクシーに  乗り込んでいった。
まるで白昼夢のような5分間!しかしなんとか、あっけにとられたまま過ごしてしまわないで自分の音楽をビートルズの生存者に届けることが出来たのだ。

1995年 36歳 その日、午前10時から開かれる紅白歌合戦の会議に出席すべく渋谷駅からNHKに向かって急いでいた。自分の関わっているタレントであるダウンタウンの浜田氏が紅白初出場、そこに松本氏乱入という構成の担当になったがための最初で最後の紅白構成参加だった。ちょっと会議に遅れ気味で急ぎ足の俺、10時になったのがちょうどタワーレコードの前で扉が一斉に開いた。テレビクルーが来てたりして、なんだかスペシャルデーっぽいと思ったら、そうだ!今日はビートルズ・アンソロジー世界同時発売の日だ!
1980年12月8日、あの日絶たれたはずのビートルズの新曲。その新曲がこともあろうに実現することになったのだ。解散して25年、やっぱりビートルズは終わっていなかったのだ。ビートルズが4人揃って最後に作ったアルバムは「アビーロード」。
俺は「アビーロード」が「The End」という曲で終わっているのに終わっていないその意味合いについて考えていた。アビーロードのB面は「You Never Give Your Money」から「The End」にいたるまでの見事なメドレーで終焉を迎える・・・はずだった。ビートルズは「The End」でジ・エンドする予定だったのだ。しかしそうは行かなかった。アビーロードには「The End」のあとに20秒間の空白があったのち「Her Majesty」が収録されいる。最初この曲は「Mean Mr Mustard」と「Polythene Pan」の間におかれていたものだったのだが、つながりが悪いと、ポールがむりやり切除して最後の最後に持ってきたのだ。ビートルズは「The End」できれいに終わることが出来なかった。
そのことと重なるような、一番ビートルズを続けたかったポールが思いあまって解散宣言してしまったというしっくりいかなさ。ビートルズはちゃんと終われていないと思えて仕方がなかったのだ。やっぱり終われてなかった。25年たって「Free As a Bird」をリリースしてやっと彼らは自由になったのだ。
そのビートルズの新曲にして、本当のジ・エンド・ソングの発売に奇しくもイの一番に遭遇し、購入することにした俺にカメラクルーはやってきた。外人のインタビュアーが、かたこと日本語で「イギリスBBCですが今回のこのビートルズの新曲についてどうお感じですか?」イギリスで放送する素材にこの俺を?!勝手知ったるテレビで使いやすいコメントサイズ。自分のインタビューが必ず放送に乗りそして、イギリスのポールの目に飛びこむようにと
「ビートルズの新曲はジョンが死んだことによって夢で終わったと思ってました。でも今日こうしてそれが手に出来るだなんて、夢の夢が叶ったような気持ちです。」と答えた。カメラは俺のレジまでフォローし、俺はオンエアーを確信した。
いったいなんなんだろう。この偶然のタイミングは?あのフジテレビの出来事といい、このことといい、コレはもう単なる偶然ではない必然だ。やっぱり俺は、ビートルズからバトンを渡されようとしているのだ。
決して間違ってはいないビートルズから学んだ精神で突き進み続けてきたにもかかわらず、全然開いてくれない扉。なぜ開いてくれないのかと嘆き続けてたが、そうだ!このタイミングのために俺は25年間という時間を費やしていたのだ!ビートルズがちゃんと終止符を打って次にバトンを渡せるようになる日が来るまで。走り出すのは、そのバトンをちゃんと受け取ってからっていう ことだったのだ!
長い時間くじけずに一度も休むことなくしつこくやり続けたおかげで、ビートルズを継ぐ者にふさわしい第一条件である、誰にも到達できない唯一無二の音楽が出来上がってきた。ちょうど準備が整ってきたところだった!

2000年 41歳 自信をもって世界に問うことが出来るアルバムが完成した。イギリスに渡ってライブをする。ビートルズの精神がこれから日本で受け継がれることを知らせに。ポール、そしてジョージ、リンゴ、ビートルズに関わった人達、イギリスの音楽関係者、そしてイギリスの人々、出来るだけ沢山に聴きに来てもらって、その意志を伝えたい。
「イギリスのポップミュージックがアメリカでヒットするなんてありえない」の常識を崩したビートルズ。
「日本の歌が英語圏でヒットするなんてありえない」の常識を崩すのが俺だ!『世の常識をうち破り人間の可能性を拡げていくこと』その使命を受け継ぐのだ! ※受け継ぐのはココ・

*なぜビートルズの引継が日本人なのかの証*
〜ビートルズが徐々に日本に近づいてきている。日本人にバトンを渡そうとしている〜

@日本人ヨーコとの出会いとその影響力。
@ジョンの晩年の親日度合の強まり方。最終的には日本人になろうとしていたのではないか?と思えるほどの行動。軽井沢での日々、古物商とのやりとり・・・等
@日本人の中に遺伝子を残してもいる(ショーン)。
@おまけにジョン・レノンミュージアムが日本に。
@人生で最悪の日を日本で過ごし(大麻不法所持で数日間拘留)多分人生観に影響を及ぼされたであろうポール。
@なぜか日本だけでツアーをし、ビートルズナンバーを披露したジョージ。
@名前自体が偶然にも日本語だったリンゴ。しかもアップルを設立するなんて出来すぎている。

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